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川原真理子の第1句集「ひかり秘めたる」(ふらんす堂)。 ちょっと不思議な世界をほのかなユーモアをもって描いた句に惹かれた。 異界への門は猫の目花篝 猫の瞳は夜は大きく開き、昼間は光を拒んで細くなる。異界への門も同じだろう。夕暮れになると人知れず開く異界の門。もちろんそれは人間の目には見えず、いつの間にかそこへ迷い込んでしまう者もいる。しかし掲句はそれだけを言うのではなく、猫の目こそが異界への門だという。暗闇に光る猫の目をじっと見れば、そこに吸い込まれそうな気にもなる。今宵の花篝は、常にも増してその猫の目を輝かせる。夜桜に誘われて来た人を誘い込むために。 冬帝の三千丈の後ろ髪 「白髪三千丈」という有名な漢詩の詩句を下敷きにしている。この李白の詩の三千丈の白髪は、長くつづく愁いの暗喩だいうことだが、掲句にもその気分は流れ込んでいる。しかしこの愁いは、個人的な憂鬱ではなく、冬帝によってもたらされたもっと広い世界の憂愁であろう。作者の意図はわからないが、私は掲句は厳しい北国の景こそふさわしいと感じる。一度訪れたなら半年近く居座りつづける冬帝。その後ろ髪の向こうにある春は遥かに遠くに見える。その冬の威圧感が「三千丈」なのだ。そして白髪の後ろ髪は、吹き荒ぶ雪の暗喩だ。雪国の人間にはもはやそうとしか思えない。 薫風が先読みたがる文庫本 風が本のページをめくるという発想はよくあるかもしれないが、薫風が先を読みたがっているという見立てが面白い。公園のベンチに座って文庫本を読んでいる語り手もまた、先が読みたくて仕方がないのだ。もっといえば、結末を早く知りたいということであろう。早く知りたくても、結末を先にみるわけにはいかず、その欲求を抑えつつ読み進めている。そんなときに、薫風が吹き寄せ、ページをはらりとめくろうとした。その瞬間、語り手の思いが薫風と一体化して、「薫風の思い」というようなものに身体の中で変化したのではないだろうか。それも「風薫る」という、風を受け入れるにふさわしい季節(季語)ならではの感覚である。 #
by gyuugo
| 2023-12-11 17:02
| 句集・俳誌
安田中彦句集「定本 人類」(私家版)。2017年に刊行された句集「人類」(邑書林)の544句を再構成・加除して300句にまとめたものという。 今の俳壇では珍しいとも言える社会詠が多く、読み応えがある。 ひとしれず臓器旅する巣箱かな 臓器という言葉には暗いイメージがつきまとう。臓器が話題になるのは、重い病気のときの臓器移植か、犯罪としての臓器売買か、あるいは「多臓器不全」などという死因か、それくらいしか思いつかない。臓器は身体の中に隠されていて、特に人間の臓器はふだん目にすることがないという理由もあるかもしれない。臓器が明るいところに出されたときは、それは重大な事象を意味する。 唯一の明るさは臓器移植にまつわる快復への希望だろう。脳死の人から取り出され、移植されるために運ばれる臓器。時間との勝負だから、ヘリコプターなどが使われるのだろうか。巣箱の上なども飛ぶのかもしれない。見上げれば、臓器を乗せたヘリコプターと鳥の巣箱。同じように新生につながるものながら、このふたつの間にある懸隔を思う。 八月やうつ伏せの子を仰向けに この句の前に《疾走す原爆の日の人さらひ》があるので、掲句の季語「八月」は戦争の影を色濃く映していることがわかる。「うつ伏せの子」はまだ小さい子どもだろう。子どもはよくうつ伏せになって寝ている。あまりによく寝ているので、息をしているのか不安になって確かめてみたという経験は誰しもあるのではないだろうか。もちろん息はしているのだが、その身体のぐにゃりとした手応えのなさは、どこか不穏な感覚を呼び覚ます。それは映像で見た戦場に横たわる多くの兵士の姿から来たものだったのかもしれない。うつ伏せであっても、仰向けにしても、一度感じた不安は脳裏につきまとって離れないものだ。 日記買ふ明日が燃えてしまふなら 「十年を生きると思い日記買う」のような老人の俳句をよく見る。この類想は数限りなくあることだろう。その目で掲句を見て、虚を衝かれた思いがした。ふだん日記をつけることなどないのに、明日が燃えるなら書こうというのである。明日が燃えるというのは、未来が失われるということだ。人類全体が混迷に陥っているかに見える現在、未来がどうなるかは誰にも予測はできない。明日にでも燃えてしまうかもしれない。それをしかと書くために日記を買うというのだろう。明日とともにその日記も燃えてしまうことになるのだが、それでも何か書かねばならないというのが、ものを書く人間の性というものなのかもしれない。
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by gyuugo
| 2023-12-03 11:21
| 句集・俳誌
俳句ネプリ「カルフル」・土井探花「地球酔」上梓臨時号。土井探花「地球酔」のことは、「雪華」2024年1月号に書いた。「雪華」の橋本主宰が、11、12月号に2号にわたって口語俳句の側面から書いていたので、私は別の視点で書いてみた。興味のある方はどこかで読んでみて下さい。 さて、ネプリより。 蛸の血のやうなあをぞら神の旅 土井探花 蛸の血が青いということは初めて知った。ネットで調べて見ると、哺乳類の血のように鮮やかな色をしているのではなく、うすい、ぼんやりとした青色をしているようだ。それでも酸素を運ぶという役割は変わらないということが、なんだか不思議な気がする。語り手は心が晴れ晴れとしないある日、よく晴れた青空を見上げた。気持ちのよいはずの青空も、なんだかくすんで見えたのだろう。そのとき、これは蛸の血のようだと思ったのではないか。蛸はとても高い知能を持っているという話を聞いたことがある。それなら蛸は、世界を人間とはまったくちがう方法で、あるいは人間よりも正しく世界を認識しているのではないだろうか。そうだとすれば、蛸は人間よりずっと神に近く、神といっしょに旅をしているにちがいない。 石蕗咲いて敬語をひとつ産み落とす このはる沙耶 石蕗は陰気な花だと言った人がいた。たしかに石蕗の花には、ひっそりと物陰に咲いているというイメージがある。そんな石蕗の花と取り合わされたのが、産み落とされたひとつの敬語。産み落とされたということなので、既成の敬語ではなく、新たに作られた敬語ということだろう。昨今よく話題になっている過剰な敬語のことだろうか。「させていただく症候群」という言葉もあるくらい、不自然な敬語が氾濫する世の中。もはや敬っているのか、馬鹿にしているのかわからないくらいだ。語り手もそんな敬語をコンビニかどこかで聞いたのだろう。何か心にもやもやとしたものを抱えながら帰路についた。そんなときに目にした道ばたの石蕗の花に、その敬語を言ってみたのかもしれない。 手にインコ眠る水始めて氷る 古田秀 「水始めて氷る」は中国の二十四節気のひとつで、立冬の初侯にあたる。角川大歳時記に例句はなく、珍しい季語であることは間違いないから、掲句はひとつの挑戦ということになる。掲句を一読して、リズムがとてもよいことがわかる。8音+9音だが、「手にインコ」が5音なので、定型感がしっかりとあるからだろう。この季語は時候の季語だから、じっさいに水が凍っているわけではないのだが、その水が凍ってゆく気配がひしひしと感じられるという、そんな雰囲気であろう。皮膚感覚として冷気を纏う語り手の手の中に、あたたかいインコが眠っている。語り手がインコを寒気から守っていると同時に、インコを手に包むことによって、語り手もまたインコから温められる。そのような人とインコとの相互の関係が伝わってくる。 #
by gyuugo
| 2023-11-28 16:58
| 俳句
「秋」11月号。藤色葉菜さんからいただいたので、葉奈さんの句から。 夜の蟹轢かれて水の湧きやまず 藤色葉菜 蟹が轢かれていることと、その近くから水が湧き出ていることには何の関係もないのだが、「て」でつないだことで、不思議な因果関係が生まれた。轢かれた蟹が生命の根源である水へと還っていくような感覚。轢かれたことは無惨としか言いようのない事象だが、その瞬間から生命の時間が巻き戻り、分子レベルまで分解されることを考えれば、水の流れのような自然の大きな力を感じることができる。このような静かな夢想ができるのは、やはり夜がふさわしい。 #
by gyuugo
| 2023-11-26 23:00
| 句集・俳誌
仲寒蟬の第3句集「全山落葉」。第65回芸術選奨・文部科学大臣新人賞文学部門を受賞した「巨石文明」から9年半ぶりの句集である。あとがきには、この間に作った約4万句から選んだとあり、収録句集はわずか1%にも満たないということになる。 モンゴルの草原に似てパンの黴 著者ならではの巨視的な視点、あるいは大げさとも言える表現が面白い。食パンに黴が生えてしまった。ふつうならすぐに捨ててしまうところだが、そこは俳人。目を近づけてじっと観察する。モンゴルの草原に見えるためにはどのくらい近付かなければならないのだろうか。おそらく顔すれすれのところに持ってきて、そこに美しいモンゴルの草原を発見したのだろう。「黴」というもっとも嫌われるものと、壮大な遊牧民の草原の対比が鮮やかだが、考えてみれば、どちらも生命力に溢れているとも言えて、そこがこの句の魅力になっている。 国家からすこし離れて葱坊主 社会詠といえば社会詠だが、思想性が全面に出るのではなく、斜めからの視線のようなものが感じられる。葱坊主は語り手自身か。《整列を土筆に教へても無意味》という句もある。この土筆は、語り手自身とも読めるし、物わかりの悪い他人を揶揄しているとも読めるが、おそらくは前者だろう。国家に言われて諾々と整列などしないという意志を感じる。 たんぽぽをたどればローマまで行ける 「すべての道はローマに通ず」ということわざは「真理というものはどのような道を通っても行き着くものである」という意味だが、この複雑怪奇な世の中で、果たして真理などというものがあるのだろうか。あるとすればそれは人間の浅はかは知恵の中にではなく、たんぽぽのような地道な存在の根っこにあるということなのかもしれない。 かへり見るたび新緑の中へ塔 このような抒情的な句もよかった。この句では助詞「へ」がとても利いている。凡手なら「かへり見るたび新緑の中に塔」とするところだが、これではただいつまでも塔が見えるというスタティックな景にすぎない。「へ」としたことで、木立の中を歩く語り手が塔からだんだん遠ざかってゆき、それにつれて塔の姿が木立へとしだいに隠れていくというダイナミックな光景が眼前に浮かび上がる。この助詞の使い方は練達の技というべきだろう。 誘蛾灯有害図書を売る店に 村よりも明るきバスや虫時雨 木枯や千年ねむるふりの石 八月といふ大いなる傘の中 よく通る声に生まれて冬青空 どの水も人を欲して桜桃忌 雪原を鯨のくぐりゆく気配 貼り紙の必死の顔が野分中 わが去りし席が消毒され西日 これしきの石に割かれて冬の川 鯨みな戦争のこと知つてをり #
by gyuugo
| 2023-11-12 16:54
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