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岡田一実句集「境界 -border-」(マルコボ・コム)を読んだ。 初花や膚は光源を讃へけり 「膚」は「ふ」と読む。語呂からいえばそうではないかとは思ったものの、そのような例を知らなかったので、作者に教えてもらうまでは確信を持てなかったのだが。 光源とは、言うまでもなく光りのみなもと、常識的には太陽のことだ。夜桜と考えられなくもないが、句にただよう明るさから言ってこれは昼間だろう。また、この「膚」は桜の木肌のことではなく、人間=作者の肌のことと読んだ。木の肌が光源を「讃える」という擬人化は、かなりぎこちなく感じるからだ。 ここで、日の光は初花と膚を等しく照らしている。作者の美しい膚(肉体)は、その光源たる太陽を眩しく弾き、同じように初花も美しく照り返している。そして、初花と膚もお互いの光を受けとめている。太陽、初花、膚=肉体の三者の互いにひかりあう関係は、いつしか讃えあうという高みにまでのぼりつめてゆくのだ。 コスモスやひかり囲ひにされてゐる 焚火かの兎を入れて愛しめり 薬降る熊野に私史の嵩高く 白薔薇の呼吸呼吸に暮れにけり 靴箱・傘・無花果・箒みな不在 初潮を乱す篝火持つて来よ 消えてゐるときの螢も見てゐたリ ◇ ◇ ◇ ◇ 恒例の【itak】ブログ更新情報 先日のイベントの人気五句がアップされています。 #
by gyuugo
| 2014-11-13 22:05
信州の俳人の2冊の句集を読んだ。海野良子さん、森泉理文さんはともに「里」の同人。 海野良子さんの「時(chance)」(邑書林)。前半は登山の句が多い。私も若い頃は登山をしていたので、共感する部分があった。構成は編年体となっているようで、俳句としては後半に惹かれる句がたくさんある。 錠前の向かう開かずの雪浄土 「雪浄土」というのは美しい言葉だ。雪には、ふだん雪のない地域の人がときどき降る雪を賞美する意と、雪国に住む者が雪とともに暮らす諦めの気持ちの両方が込められているが、「雪浄土」からはそのどちらでもない情感が思われる。《人形の貌いつみても雪降れり》《雪を掘り雪掻きの道つくりけり》という雪と人間が対峙する現実は、実は錠前のかかった塀の内側のできごとなのであり、その外側に幸福感とともに雪に包まれる浄土がある。それが信州の風土に生きる作者の夢想であり、同時に実感なのではないだろうか。 這松の花より知らず高嶺蝶 山彦のもみぢに泊めてもらひけり 白菜の尻往還へ向き積まる 鉄橋や夜の白炎の雪解川 青蔦に水の勢ひレンガ古る 鉱山の千五百人滝木霊 穴釣の穴にコーヒー缶差さる 街の灯は街を照らせり月天心 夕月にまだ色のなき刈田かな 二十三夜月眠る灯眠らぬ灯 雪折のさくら蕾を尽くしたり まだ枯るる力の残り一茶の忌 土手焼の灰匂ひしと蝌蚪生まる 遠くより整つてきし牧の春 これを書いたあと島田牙城氏による解説を読んだのだが、作者の住む上田市は雪の多いところではないそうで、「雪を掘り」の句は珍しく大雪となったときのことを詠んだ句とのことだった。 続いて森泉理文さんの句集「春風」(邑書林)。 作者は畑仕事をなさっているようで、農の現場を詠んだ句が多くみられる。また、作者の住む風土、山や墳墓や神社など、土地に根ざした俳句も魅力がある。 頂上の祠背にして初景色 村中が山に礼する初景色 初詣裏より入り脇に抜け 村中の信仰を集める社でありながら、裏から入って脇に抜けるという身近さが何ともいい。たくさんの参詣客を集める大きな神社の初詣もいいものだが、こういう村の神社の初詣にはまた別の豊かさがある。 土掘りて雪の浅間を今日は見ず 筋たつて浅間の雪は収まりぬ 浅間山を仰ぎ暮らせり牡丹の芽 娘の住む群馬県を訪れたときに浅間山の勇姿を目にした。旅の者が見てもたいへん風格のある山である。作者は朝に夕に浅間山を見上げ、また浅間山に見守られながら畑仕事をしているのだから、その尊崇はいかばかりか。 老媼の二重に折れて草を掻く まづ閉めてゆつくり覗く夕立かな 行く夏や草の正体見えてくる 初紅葉夏を許してをりにけり 二坪の架稲の尻でこぼこに 十日夜土竜鼠に軒貸して 冬の田や雀と鴉には会へる 初野良や地の草につぶやいてゐる 茎立ちや信濃群雄割拠の地 群らがりの大股に越す花薺 墳頂に蕨摘みたり千年の 遠足の鳴りつぱなしの神の鈴 #
by gyuugo
| 2014-11-11 20:29
朗善千津さんの句集「55」(マルコボ・コム)を読んだ。 この句集のいちばんの特徴は横書きで、しかも英訳がついていることだ。アメリカ人である夫君や、アメリカにいる友人たちにも読んでほしいという配慮なのだろう。それにしても、この体裁は新鮮。小澤實が「俳句は縦に書いて天と地を結ぶものだ」と言っていたが、朗善千津の俳句は「横に書いて洋の東西の想像力を結ぶ回廊なのだ」と主張しているかのようだ。 雪解けののちの渇きや富士樹海 もの知らずな私は、富士樹海といえば未だに「一歩中に入るともう出られない」「方位磁針も使えない」というイメージだった。さらに、富士山の裾野はすべて樹海だと思っていた。ネットで検索してみて、まあ私のように思っていた人も多いようだが、実は樹海には遊歩道が整備され、富士山の裾野はゴルフ場だらけだということがわかった。何だあ、つまらない。そんなこと言っては、富士山観光で生計を立てている人に申し訳ないが。 さて掲句。渇きや、と詠嘆しているのでこちらに重きがあるのだろう。しかし雪国の住人としての私は、雪解けの明るさをつい想像してしまう。その生命感溢れる迸りは、もしかしたら雪国の者でないとわからないかもしれない。 作者は愛媛の人。アメリカで暮らし、帰国して富士山麓に移住した。作者の書いたもので読んだのだが、雪や雪解けから与えられたインパクトは相当のものだったようだ。掲句は、水が去ったあとの渇きを想像するからこそ、雪解けのみずみずしさが引き立っている。そしてそこには、樹海に迷って渇きに苦しむ人のイメージが背景として描かれているようで、それが句に深みを与えていると感じるのは私だけだろうか。 包丁を研いで夫の雪を待つ 哀しみのごとし拳の中の雪 青豆を剥くひそやかなしぶきあり 帰りたき所はあれど無月かな 手に取れば脈打つ落ちたばかりの葉 ◇ ◇ ◇ ◇ 【itak】のイベントも盛会裡に終了したようだ。私は残念ながら仕事で参加できなかたのだが、今回は伝統系の方々の参加もあったとのことで、ますます存在感を増していることは嬉しい限りである。 #
by gyuugo
| 2014-11-09 22:07
鴇田智哉句集「凧と円柱」(ふらんす堂)は、第一句集「こゑふたつ」の延長であるようではあるがそうではない、というのが読後の感想だ。「こゑふたつ」は浮遊感などの言葉で語られることが多かったように思うが、「凧と円柱」は、その気になってふわふわ浮いていたら、とてつもなく堅いものに突き当たって、からだ全体が激しく揺さぶられるという感覚とでも言えばいいだろうか。 毛布から白いテレビを見てゐたリ 第Ⅱ章の冒頭の一句。 あとがきによれば、第Ⅱ章は、「承、転、起」の「転」にあたるらしい。「転」とは「天災の軌跡」。言うまでもなく、東日本大震災がひとつのテーマになっている。 「白いテレビ」とは何なのか。私は、今まで夢想だにしなかった災害の前に、白と形容するしかない思考の停止状態であると理解した。自分自身の頭のなかの空白はもちろんだが、テレビもただ現状を追いかけるだけしかできなかった白い時間。毛布は、安全地帯にいてテレビを見ているという象徴だろうか。さらに集中には、 あけがたを死せり白炉をとほくして 点々と石やいはきの白い夏 と白を詠んだ句がなお現れる。 一句目。「白炉」とは何だろうか。白炉という言葉は作者の造語だろうが、前後関係から原子炉を想起させる。壊れてしまってもう動かない原子炉。その虚ろが白炉と表現されたのだろう。 作者は東京にいて、あけがたを死んでいると言うのだ。夜から朝に移り変わろうとする「あけがた」。そんな世界がいちばん冴えわたる時刻に、自分のなかで何かが死にゆくという大いなる無力感を感じているのではないか。 二句目は、いわき市の現状を写生したものか。ここにも、白という色彩が効果的に使われている。すべてが攫われて白くなってしまった記憶。点々とある、どこかから流れてきた意味を持たない石に悲しみを感じる。 ここで、句集のタイトル「凧と円柱」を考えてみたい。 第Ⅰ章より むかしには黄色い凧を浮べたる 文法的なことはあまり自信がないが、「むかし」のことなのに過去形ではなく完了形だ。これは、過去に黄色い凧を浮かべたという回想ではなく、昔に遡って黄色い凧を浮かべてきたという景ではないか。天に地に、意に添わぬ出来事が満ちている時代。それを離れて、むかしに安穏の象徴のような黄色い凧を揚げてきたいということなのか。 円柱は春の夕べにあらはれぬ 恣意的な読みとの誹りを覚悟で言えば、この円柱のどこかに原子炉のイメージが潜んでいるような気がしてならない。原子炉格納容器は実際には完全な円柱ではないようだが、よく模式図は円柱のかたちが描かれている。黄色い凧がただよっていた安寧の空=永遠の春にいつのまにか現れた円柱。そんなことを感じてしまった。 第Ⅲ章より 空の木のひろがりに凧かかりたる 空いちめんに木がひろがっている。そんな世界では、凧を揚げても木にひっかかってしまうだけだ。絶望的な景のようにも思えるが、かといって完全に悲観しているわけでもなさそうだ。「空の木のひろがり」という大らかで肯定的なイメージ、そこに未来への希望を見いだしたい。 円柱の蝉のきこえる側にゐる (蝉は旧字体) さきほどの読みの延長でいえば、ここにもかすかな希望がある。不穏な円柱が(無意識の)視野に大きく立ち上がっている。しかしそこにも、「蝉の聞こえる側」があるのである。生命のエネルギーへの期待と信頼がここに感じられる。 このように社会的な事象を軸にこの句集を読むことは、鴇田俳句の魅力を損なってしまうという批判は当然あることと思う。それでもなお、もしこのような読みが、鴇田智哉の俳句世界のごく一部でも掠めたのであれば幸せである。 「凧と円柱」はとても魅力的な句集で、何度も読み返すことになるだろうが、その全体はあまりにも広く深く広がっていて、私のような者の手に負えるものではないというのが正直な感想だ。これから、多くの賢才によって「凧と円柱」の評が書かれることだろうが、それを楽しみに待ちたいと思う。 ◇ ◇ ◇ ◇ 今週末は【itak】のイベント。私は仕事の関係で参加するかどうか決めかねている。今晩も雪だ。明日の朝には15cmの積雪との予報。冬の前は何かと気ぜわしい。 【itak】ブログは、ムッシュこと恵本俊文さんの「ムッシュが読む」が最終回。恵本さんがなぜムッシュと呼ばれているのか、そういえば聞いたことがない。今度会ったら聞かせてもらおう。 #
by gyuugo
| 2014-11-03 20:43
「はがきハイク」第10号。 手作り感が嬉しい。プリントして切手を貼って宛名は手書きしている。私のような者のところにも届くのだから、かなりの枚数を出しているだろう。それだけでありがたく思ってしまう。 今回気づいたのが切手のチョイス。 「全国電話自動化完了記念」とある。1979年の発行。私が高校生の頃だ。 若い人はわからないだろうが、この直前まで、私の住んでいた北海道の田舎町には「農村電話」なるものがあった。市街地は早くから自動化されていたが、農村地域に電話をかけると、まず集落の代表者の家にかかり、そこから各戸につないでもらうというシステムだった。「自動化完了」というのは、おそらくこの仕組みがなくなったということなのだろう。 切手からノスタルジックな世界に引きこんでしまうという仕掛け。巧いものだと思う。 さて俳句。 ロボットが電池を背負ふ夕月夜 西原天気 子どもの頃の憧れの玩具と言えばロボット。背中に入れる単一電池の重さを頼もしく思ったような気がする。遊び疲れて転がされたロボットを夕月が照らしている。 姉はみなルーシーである大花野 笠井亞子 ロボット・ルーシーというものを五十嵐秀彦さんのブログで知った。なるほどそういう趣向なのね、と思いつつ、私が想起したのは、子どもの頃のテレビドラマ「ルーシーショー」。アメリカのドラマで、とにかく笑うアメリカン、というようなものだった。そんな家族を大花野の明るさが包んでいるよう。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ さて、俳句集団【itak】の次回のイベントは、俳人で獣医師の安田豆作さんの講演。 「重種馬の生産の現状と、馬の俳句」というタイトルで、面白い話が聞けそうだ。 前にも書いたが、私が俳句を始めたきっかけは豆作さんの句集を読んだことだった。そういった意味で、豆作さんは私の恩人なのである。楽しみでしかたがない。何事もなく参加できればいいが。 立ち上がる牛に傾く大夏野 安田豆作 昂れる牧夫の声や熊の跡 牛を縫ふ大きな針も針供養 一頭に群動き出す牧晩夏 その他、籬朱子さんによる安藤由起さんの句の鑑賞→こちら 滝川市で行われた Haiku Bar のレポート→こちら などもお読みいただけるとありがたい。 #
by gyuugo
| 2014-10-04 21:40
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